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証言者の署名

Posted: 2026.01.28 Category: ブログ

今年に入ってジェーン・オースティンの本を何冊か読んでいました。物事がこの世界に現れる形というのは、いつも奇妙です。それはあまりにも即時的で、ほとんど唐突に起こるように見えますが、同時にその意味は決して即時的には確定しません。1700年代に書かれた小説とは思えない、ほとんどフローベールのような映画性/映写性に私は驚きを禁じ得ませんでしたが、作者が完全に装置として消えていて観察だけしていて自分の意見をまったく言わないことは、いわゆる自由間接話法の、歴史のなかでの一番最初のものに思えました。それはスタンダールやバルザックよりも古い時代のものであるばかりか、フローベールの先駆のようなその書き方のみならず、内容も現代の若者が読んでもまったく違和感なく、新聞小説みたいにさらさらと良質な「小説」を読んでいると感じるだろう作品に、自分は本当に驚いたものです。こうした読解は起こった瞬間にはそれが何であったのかは誰にもわからず、時間が経ち、距離が生まれ、誤解が積み重なり、当事者が沈黙したあとになってようやくそれらしい輪郭が立ち上がってきます。実際オースティンは歴史的に見ても突然変異の形式でしたが、私にいわせればその視点はおそらくボルヘスの見たシェイクスピアと、ドゥルーズの見たヒュームの交差点で見つけた作者の「語りの時間構造」でした。そしてドゥルーズの文体が自由間接話法への哲学からの回答であるという意味で、ポスト構造主義が語り続けていた映画とは、まさにそのような時間の構造をもつものだったのだと思います。私はコーヒー屋の仕事をしているのですが。。私にとって、コーヒーは映画に少しだけ似ています。「媒介を必要としない」ことと、「内側で真実を必要としない」という意味で、そうなのです。

『(…)『シネマ』はドゥルーズの書物の中では、もっとも形式化されたものじゃないかと思う。彼にしてはめずらしく多くのことを括弧にくくり、還元的なので、彼の作品の中ではほとんど心が動かなかったものなんです。彼がそこで何をしたかというと、分類です。それ以上には全く出ていないんですね。その理由はわからないわけではない。やはり彼にとって映画は偉大すぎる』(『ドゥルーズと哲学』)

哲学が「認識論のアウフヘーベン」(ヘーゲル)で しかないのであれば、技術的な装置として二項対立を可視化させてしまった「映画」というものが、「哲学」を完璧に終わらせてしまったという、ポスト構造主義の主張は正しいと思います。しかし、ゴダールはさらにそれをこえることを言っているように私には見えるわけです。それは、「内側で真実を必要としない」という意味です。『映画史』の監督は、映画の監督になる前は映画批評家でした。そして彼の周囲には、彼と同じように、映画を見、映画を愛し、映画について語り尽くした人々が大勢いました。おそらくその多くは、映画監督になりたかったのだと思います。しかし、映画についてどれほど知っていても、どれほど頭の中に映画の構造があっても、それだけでは映画監督にはなれないのです。その断絶を、彼は誰よりも早く、誰よりも冷静に見ていました。彼が安易に「映画を撮りたい」と言う人々を強く批判していたのは、才能の有無や、レベルの低さへの嫌悪から(そういうものがまったくなかったとは言い切れないとは思いますが)ではありませんでした。むしろ逆です。映画を本気で愛し、人生を差し出し、それでも何も起こらなかった人々を、あまりにも多く、あまりにも近い距離で見続けてしまったからです。そして、それはことばではうまく言言い表せないほど「偶然的」ななにかに関わっていました。

映画監督になるという出来事は、技術の積層の上にあるわけでもなく、才能の発露の結果ですらありません。それらがすべて揃っていても、何も起こらないし、むしろ何も起こらないことのほうが圧倒的に多いものです。その事実を、ゴダールは「理論」ではなく、「現場の死体のような現実」、「死体のような事実」として扱っていました。彼のいう「人が死ぬ前に服す喪」(ゴダール)ということばは、このあたりのなにかにおそろしくなまなましく関わっています。あまりに多くの葬送的な出来事が、彼の出発点だったのです。人がなにかになったり、なにものにもならなかったりする。その瞬間は確かに訪れます。しかし、その「意味」は、決して同時には現れないものです。

この構造は、「署名」(デリダ)という概念とも深く重なっています。署名とは、「私」の証明ではなく、作者が不在になっても切り離され、誤読され、文脈を失ってもそれでも作動してしまう痕跡のことです。何ものかになるということ、それは自己表現ではないし自己実現ですらありません。ゴダールは、映画を「作る」話をしていたのではなく、彼が見つめていたのは、映画が「作られてしまう」ことの重さです。そして、「それ」に耐えきれず、静かに消えていった無数の人々の姿でした。しかしそれでも、人は引き受けてしまうのです。なりたいからではなく、才能があるからでもなく、ただそこに立ってしまうからです。そこに立った人はそのことを美化もしませんが、目を逸らすこともしません。しかし、人はそこから目を逸らさないだけで良いわけではないのです。なぜなら、自分のしていることが形をとり、他者との関わりの中で成立するという意味では、どんなものごとも交換であり、形あるものの交換であることはすなわち商品性が生まれるからです。表現も商売も、「他者に渡ってしまう」という点で、同型であることに疑いはありません。そして、それは「そこに残る」ことに一番関わっている肝要でもあるのです。自己満足を「趣味」と呼ぶなら、商売とは「署名が自分を離れて他者の手に渡る」という、ある種の絶望を引き受けることです。その峻別を誤ることは、表現者としても商人としても、致命的と言わざるを得ません。

しかしアカネ科の果実の種子を焙煎して砕きお湯で成分を抽出した飲料や、その飲料をその場で飲ませる店などの仕事に携わる人たちからしても、この事実に対する耐性はそれほどのものではないわけです。私はそのことについて考えていますが、核心は考えている先にある事実というよりも、たんに「廃業率」などにあらわれています。それでも、人は引き受けてしまう。なりたいからではなく、才能があるからでもなく、ただそこに立ってしまったからです。そこに立った人はそのことを美化もしませんが、目を逸らすこともしません。しかし、繰り返しますが人はそこから目を逸らさないだけで良いわけではないのです。

ちなみに(繰り返しますが)私にとって、コーヒーは映画に少しだけ似ています。「媒介を必要としない」ことと、「内側で真実を必要としない」という意味で、そうなのです。

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